【端午の節句】
どーも本庄です。
「超」飽き性の私のブログ28投稿目です。
今回のテーマは【端午の節句】です。
端午の節句は5月5日のこどもの日に男の子を祝う日として知られています。
しかし、その由来やなぜ端午の節句というのかを知っている人はどれぐらいいるのでしょうか?
今回は端午の節句について詳しく解説していきます。
『端午の節句とは』
端午の節句の端午とはもともと5月に限ったものではなく、月の端(はじめ)の午(うま)の日という意味でした。
しかし、午(ご)と五(ご)の音が同じことから、毎月5日を指すようになり、やがて5月5日になったと伝えられています。
この当時の日本は季節の変わり目である端午の日に、病気や災厄を避けるための行事が行われておりました。
この日に薬草を摘んだり、蘭を入れた湯を浴びる、菖蒲を浸したお酒を飲むなどという風習がありました。
徳川時代からは5月5日の端午の節句に「鯉の吹き流し」を立てて、「武者人形(五月人形)」を飾って男の子を祝いようになりました。
5月5日は5が重なるため「重五」、菖蒲を用いる事から「菖蒲の節句」などと呼ばれていました。
「五」と「午」が相通ずることから初節句を「端午」「端五」と書いていました。
室町時代からは武家の間で5月5日の端午の節句に、竹竿に布を張り「吹き流し」を立てていましたが、江戸時代になり町人階級も紙で作った「鯉のぼり」を竿に付けて高く掲げて対抗して遊んでいました。
鯉は「鯉の滝登り」などと伝えられ威勢の良い魚です。
子供が元気に育つようにと親の願いが「鯉のぼり」に込められています。
『端午の節句が男の子を祝うようになったわけ』
端午の節句の行事は鎌倉時代に入り武家政治と移り変わり次第に廃れていきました。
ですが、武士の間では尚武(武をたっとぶ)の気風が強く、「菖蒲」と「尚武」をかけて端午の節句を「尚武」の節日として盛んに祝うようになったのです。
江戸時代になり5月5日は徳川幕府の重要な式日と定められ、大名や旗本が式服で江戸城に参り将軍にお祝いを奉じるようになりました。
将軍に男の子が生まれると、表御殿の玄関前に馬印(うましるし)や幟(のぼり)を立てて祝っていました。
そうしたことから、薬草を摘んで邪気を払うという端午の節句の行事が、男の子を祝う行事へと変化していったのです。
やがてこれが一般の人々に広まり今日に至っています。
『端午の節句は屈原(くつげん)の供養のための祭だった』
この話は今から約2300年前の話で、楚(そ)の国の国王の側近に「屈原(くつげん)」という政治家がいました。
屈原は詩人でもあったが、その正義感と国を思う情は非常に強く、人々から厚い信望を集めていました。
しかし、陰謀により屈原は失脚してしてしまい、国を追われることになりました。
その時に歌った歌、「離騒(りそう)」は中国文学史上不朽の名作と言われております。
屈原は故国の行く末に失望してしまい汨羅(べきら)という川に身を投げてしまいました。
その後、楚の民は小舟に乗り川に行き、太鼓を鳴らしたり、ちまきを投げ入れて、魚が屈原の死体を食べないようにしました。
その日が中国の年中行事になり舳先に首飾りを付けた竜船が競争する行事が生まれました。
これは今日のドラゴンレースの始まりと言われております。
こうしたことから毎年、屈原の命日の5月5日には供養のための祭りがおこなわれるようになり、やがて中国全体に広がっていきました。
屈原の政策は国や人民に尽くしたため、屈原の死後もいっそう人々に惜しまれ多くの粽(ちまき)を川に投げ入れ国の安泰を祈願する風習になっていったのです。
その風習は病気や災厄を除ける大切な宮中行事、端午の節句になったと言われております。
三国志時代には魏(ぎ)の国によって旧暦の5月5日に定められ後に日本にも伝わっていきました。